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RJRN買収騒動LBO時代を代表する投資会社KKRは、投資銀行Bを辞めたK、K、Rの三人によって設立された。
すぐ分かるように、この社名は三人の名前から取られている。
同社は七六年ころから活動を開始し、七八年に巨大複合会社HのLBOを成功させ、七年半の期間に年一三%の普通株主資本利益率をあげて注目され、LBOブームを巻き起こした。
以降、十二年にわたって、KKRはLBOブームをリードし、後続の投資家たちの尊敬と嫉妬を集めた。
しかし、ブームを主導したKKRは、その絶頂期に、誰が見ても意味のない買収に事実上失敗して、自らブームに幕を引くことになる。
八八年、タバコ事業を含む複合企業体RJRNビスコのワンマン経営者、Fが、自分の独裁的地位をさらに固めようと経営陣による自社株買収(MBO)を試みるが、RJRの買収を検討していたKKRは、たちまち資金を調達してLBOを仕掛けた。
しかし、この買収合戦は投入された資金が史上最大といわれ、KKRの勝利に終わったものの、すぐに資金調達の方法で失敗していたことが明らかになった。
KKRはDから資金を得ていたが、格付け会社のMがRJRの格付けを下げたため、最初の契約条件に従ってDに高い金利を払わざるを得なくなってしまった。
また、買収したRJRの経営状態が思ったより悪く、タバコ事業でライバルのFが、タバコの低価格競争を仕掛けてきたのにもうまく対応できなかった。
買収が何を目的としていたのか不明瞭であり、買収対象の企業の経営状態すら十分な調査が行われていなかった。
また、買収の手法においても資金調達の金額だけが先行し、リスクの高さを考慮していなかった。
さらに、買収してからどのように買収先の経営を行うかも検討がなされていたわけではないのである。
結局、KKRはRJRの株式を手放してしまうが、売却益はごくわずかで、しかも皮肉なことに、売却してからRJRの株価が上昇しはじめた。
この買収騒動は、八○年代の企業買収・合併のなかで最も注目されたが、最も意味のなかったケースとして、歴史に名をとどめることになった。
ひとつのブームが終わるときには、何から何までうまくいかなくなるもので、八九年にはDのMが起訴された。
インサイダー取引の疑いだった。
Dのインサイダー取引疑惑は、八五年、同社のLとSのインサイダー取引が発覚し、翌年、二人が逮捕されたときに遡る。
LとSは、M&A事業を進めるなかで、弁護士や投資銀行家から得たインサイダー情報を、債券売買人のBなどに流し、かなりの報酬を得ていた。
ちなみにこのBは、S監督の映画「ウォール街」でDが演じた投資家Gのモデルだといわれている。
Bは大学に講演で呼ばれて学生の前で「強欲は健全なもの」と語ったが、映画のゲッコーはもっと直接に「強欲は善」と語り、血圧測定をしながらインサイダー取引を繰り返している。
Dレクセル事件の取調べでレビンは罪を認め、SやBは事件の核心にかかわる情報提供と罰金支払によって司法取引を行ない実刑は免れたが、Mはそうはいかなかった。
捜査当局は彼の逮捕をこの「ヤマ」にしていたのだ。
インサイダー取引事件は立件がむずかしいので、当局はこうした「仲間」の裏切りに捜査の突破口を見出そうとするのだろう。
Mファンド事件もL事件の摘発が先行していた。
Mは、インサイダー取引に関与したことは否定しつづけたものの、他にも詐欺、脱税、証券詐欺、恐喝の容疑で起訴され、結局、十年という重い実刑判決を一受け、後に減刑を受けて二年間服役している。
Dレクセル自体も、Mを失ってからは業績が急速に悪化し、九○年二月には破産申請に追い込まれている。
最近、Mはシリコンバレーに現れ、その「再チャレンジ」が話題になっているようだが、こんどはどのようなトリックを案出するのだろうか。
ちなみに、このときの捜査の指揮をとったのがルJ連邦検事であり、彼は九三年にニューヨーク市長に当選。
さらに、九七年に再選されて二○○一年九月十一日の同時多発テロのさい在任中だった。
興味深いことに、Jは、その後、投資会社Jを設立して、投資ビジネスに進出している。
「蛇の道はヘビ」ということなのだろうか。
アクティビスト投資家Bの正体Mは「もの言う株主」と呼ばれるとともに、しばしば「アクティビスト」を目指しているとも報道された。
そのためか、「アクティビスト」の日本語訳が「もの言う株主」であるかのような誤解がしばしば見られた。
しかし、この「アクティビスト」にはMが唱えたような「世直し人」の意味はなく、アクティブ(積極的)に企業に働きかけて株価を吊り上げようとする、Gのような強欲な投資家でしかない。
八○年代におけるアクティビスト投資家の代表は、前述した「乗っ取り屋」ブーン・Bだろう。
父親が石油のバイヤーで、生まれたのもオクラホマの油田地帯だった。
大学で地質学を学んでF石油に就職したが、数年でやめて自分でM石油を設立し、八○年代にはひと財産を作り上げていた。
やがてBはM石油を拠点にして、石油企業のM&Aに傾斜していくが、それは石油会社の多くが放漫経営であることに気がついたからだという。
ほどなくしてBのM石油は「石油産業の脅威」となった。
Bは放漫経営の石油会社の株を買い占め、株主の権利を声高に唱え、経営の効率化を主張したが、たいがいは「グリーンメール(利鞘稼ぎ)」だった。
F石油のさいの株式買付がその典型とされている。
このときには八四年の終わりごろからBを中心とする何人かの投資家がF株を大量に取得し、Fを「経営陣は株主の資金を無駄遣いしている」と激しく批判した。
こうした言い方も、Mがしばしば口にしたものと同じである。
F石油はBの攻撃に屈して、彼が保有していた株式を一株当り五十三ドルという高値で買い取ることとし、さらに他の株主に対しても一株当り五十三ドル相当を配分する資本再生案で解決をはかろうとしたが、こんどは、Bの同類で名うてのアクティブ投機家カール・Aも、Fの公開株式買付に乗り出すと言い出したので、F石油の経営陣はますます窮地に陥った。
結局、F石油の経営陣が提示した初案は株主総会で否決され、新たに提案された買い取り価格は、一株五十六ドルに近いものだといわれた。
このとき、Aは公開株式買付を取り下げ、BはFに株を売却してグリーンメーラーとしての勝利を確実なものにしたが、F石油の財務は悪化し、従業員の一割削減や資産の売却を余儀なくされている。
Bの名を歴史に刻む「U訴訟」乗っ取り屋であるBの最大の「貢献」は、その後、「強引な買収」かどうかを判断するさいの判例を生み出したことだろう。
八五年、Bに率いられたM石油は、同じく石油会社であるUに買収をしかけた。
同年のバレンタイン・デーに、U社長Hは仰天する。
すでにM石油が七・九%の株式を保有していることが明らかになったからだ。
しかも、Bはすでに幾つかの銀行と示し合わせて、さらなる買収資金の準備をしていた。
呆れたことにそのなかには、長年Uのメイン・バンクだったS銀行も含まれていた。
Hは乗っ取り屋と、乗っ取り屋が仕組んだ「合併ブーム」を激しく非難した。
Bらの乗っ取り屋は、「人びとの生活を破壊し、企業の息の根を止め、資源開発とアメリカ経済発展の見通しを悪化させた」。
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